2011年1月2日日曜日

2011年 元旦

謹賀新年 2011年元旦(2011/1/1 AM6:56)元旦の朝日。

朝日はたびたび見ますが、そーいう時間に帰宅したり寝ることが多いもので。
しかし、元旦の朝日は、何か、沸々と、不思議と力をくれる、そんな感じがします。
イメージとしては、「希望」というものは、人が想像できる未来の、おそらく良いほうの姿。
ありうる未来には幅があって、今が「要」だとすれば、未来は最良と最悪の幅の「扇」の間にある。
過去を振り返ればひとつしかない道を歩んできたようでもあり、だが、未来を見渡せば、その「扇」の面に無数の道筋をもつ。
では、「個」として存在する我々は、その未来に一体何ができるのか。



「希望の在り処」



人は元来正直なものです。だが、正直っていうのは、大抵まっすぐじゃなくて曲がってるもので、だからボクは、その曲がったところまで正確に見つめます。
100点満点の正解はない。どれほど素晴らしく見える「答え」にも、必ず「功」と「罪」がある。
だが、言いかえれば、それはないんじゃない?っていう「答え」にも必ず「功」がある。

ボクはそこを見極める。

もし、今、進まなければならない「道」があるとしたら、やはり、進まなければいけないでしょう。
その「進み方」にも正解はない。
敢えて言うなら、進まなければいけない以上、「進む」が唯一の「正解」であり、進む方向は、その瞬間においてはそれほど意味がない。

「正解」に近づこうとする志は素晴らしい。
だが、それは効率的に短時間に答えを出そうとしているに過ぎず、「正解」から離れそうな「予感」が再び無駄なエネルギーを消費させ、進む力を阻害するとしたら、その「善良」な「予感」はむしろ本末転倒で無用であるばかりか邪魔になる。
どう進もうとも、「社会」は、「世界」は、必ずそのあたかも生命がただ本能的に生きようとする生命力のような抗えない力によって「大多数の利益」に引っ張られる。
つまり、間違って進めば、それが反面教師となって正しい道を見つける力を生むバイアスとなる。
故に「進む」ことは、必ず「答え」に近づくことに繋がるのです。


「抗えない力」、それを感じてください。
できるはずです。なぜなら、キミの中にも必ずあるはずなんです。
その「抗えない力」の欠片が。

抗えない、我々は、そして「個」は、その前ではさらに無力です。
その「抗えない力」の前で、絶望しそうなほど失望したとき、気づくでしょう。
その「抗えない力」は命の力、ただ、生きようとする力なんです。

抗えない、その失望の中に、だからこそ「希望」が見えませんか?
ボクは、無暗に何かを信じたりはしない。
ただ、事象としての真実を正確に捉えようとする。
だが、この決して滅びない、抗いようのない力だけは、見えないけれど、信じています。

「幻想」によってつくられた「虚像」の街、そこにボクは立っている。
だが、その「虚像」の中にさえ、隠れたところに「実像」はあり、その「実像」の生命力をボクは知っている。それは、ある意味、ボク自信と相似関係にある。だから直観的にそれを感じられたのかもしれない。

「世界」もそれは同じことなんです。
そう、今も「世界」は、その姿はまさにボク自信と相似関係にある。

2011年、辛卯(かのとう)。一年を表す文字に含まれる「辛」は、殺傷を含む大きな突き上げや変化を意味する。時代は膠着している。なぜ膠着しているかといえば、変化を望まぬもの(世代)と望む者(世代)の、望まぬ側がまだ多数だということを表している。高齢化社会ですからね。否が応でも、この国は大混乱期を前にしている。安定志向がマグマ溜まりにエネルギーを蓄えさせ、つまり、わかりやすく言い換えれば、変化を望まぬ世代とは、その大混乱期からの逃げ切り世代、変化を望む世代とはそこから逃げ切れぬ世代のこと。このことをどれだけ正確に分析できているかはともかく、これは一種の危機予測、誰もが感じるように変化、若い人たちの言葉を借りれば「リセット」的な変化を望む者は日に日に増えていく。そして、その変化を望むものが多数となった時、その瞬間に時代は大きくうねる様に激変するだろう。世界も同じ、大多数の利益が「平和」を求めているうちは起きなかったことが、大多数の利益が、たとえば「戦争」によって実現できるとなった瞬間に時代は大きく変わる。その変化の向こうにある「世界」が、たとえ、ある「個」にとって望まぬものであろうとなかろうと、2011年という年は、あるいはそろそろかな(まるでヘッジファンドみたいな言い方だが)おそらくその端境期となるように感じています。


2011年、この国は事実上まさに破綻前夜。60台上の世代はそこから必死に逃げ切ろうとこの国の闇を隠蔽し続けている。だが、40より下の世代は逃げ切れない。確実に、破綻したこの国を担わなくてはならない。シグナルはもうすでに届けられた。安定の先にある不安定極まる状態。世代間闘争、それはこの国の人たちが最も苦手としてきたこと。年寄りを大事に、年上を敬え、安全・安心、多様性という名の不感症、刷り込まれたすべて正義が、結果としてこの国の変化を拒ませてきた。もう間に合わない、だから、みんな、直観的に身構える。そしてさらに時代が膠着する。だが、それもそろそろ終わりかな、いや、終わりにしたほうがいい。


「生命」が本能的にだたただ生きようとするのと似て、否が応でも、大多数の人々の「利益」を実現する方向に進もうとする「世界」、あるいは「社会」、あるいは「街」。「未来」を「扇」にたとえたが、確かにその「扇」のどこか一点に向かわせようとしても、「個」の力は無力。だが、その「扇」のある部分には向かわない「程度」のバイアスを与えることぐらいなら、たとえ一人の力もそれほど無力ではない。そのことを、証明できるかどうか、それが自分の使命感。それは、ある種の「失望」でもあるのだが、「失望」の中から見出した自分なりの「希望」の示し方なのです。

「抗えない力」の前で、「未来」は「扇」の面の中にあるが、その「扇」のどこか一点に向かわせようとしては「個」は無力。もしあなたが無力に打ちひしがれているとしたら、多分そういうことだとなんだと思う。だが、その「扇」のある部分には「向かわせたくない」、もしそう思ったとしたら、「抗えない力」はテコに使える。 そういったバイアスを与えることぐらいなら、たった一人の力でも可能だし、「世界」を、「社会」を、「街」を動かせることを見せたい。


「抗えない力」の前で失望した時、その「失望」の中から見出した、「希望の在り処」はそこにある。