2011年10月26日水曜日

"愚行権"

他者の生命や所有に関する許容不可能な危機や損失を与えないこと、が善きものの最低限の条件。
人が社会性生物として生きる限り必要なこと、だとするなら、
が、あくまで"他者の"であり、"自己の"、ではない。
自己の生命や所有に関する、あるいは社会性において、自己の範囲で、許容不能となるかもしれぬ危機や損失を覚悟しても人は、時に、したいことをする。

それは悪か?いや、悪ではない、
それを人は、"愚か"という。

愚行権―"the right to do what is wrong"―
たとえ他の人から愚かでつむじ曲りの過ちだと評価・判断される行為であっても個の領域に関する限りは、他者に邪魔されない意志と行動の自由。
対して、パターナリズム―paternalism―強い立場にあるものが、弱い立場の者の利益になるように、本人の意思に反して意志や行動に介入、干渉すること。

親が子に注ぐ愛は、自己責任力において対等な関係ではない故に、一般的にはパターナリズムが許容される。
国家と市民の関係も、国家は市民の権利と自由を制限するがそれは社会性の維持や公共の利益を損なわず、市民の権利と自由を保護するためのものであり、国家が市民の付託を受けているという前提において、正当化される。
「善き生き方」としての倫理観では、人は概ね、人生に生きがいを求めつつも、賢くありたい、と思うのが通例であるとしている。意図的に、自ら破滅しようとする人は、あくまで例外的であると。だが、その"破滅しようとする"は、他者からの客観に過ぎず、個の心を、意志を、その深淵まで正確に把握することはそもそも不可能であることから見れば、個の判断や意志に対し、善良な心を持ってしても、外部からの介入・干渉は、客観的な推察や一般的な評価を根拠としており、よって、誤る可能性は高い。
親も、"善かれ"と思って、子の意志や行動に介入し、干渉するにしても、実際多くの親の愛は、足りなかったり多すぎたり、間違いを教えるものだ。国家も同様、市民に関わりすぎては、自助自立の志を奪い、また、多くの間違いを積み重ねる。だから、国家は必ず、いつか滅びる。
人はわかりあえる、のではなく、そもそもわかりあえない。
わかりあえたら、とっくに世界はもっと平和になってただろうし、人の心は癒されていたはず。
わかりあうためのツールはどんどん進化してきた。言語や思想、素晴らしい音楽や芸術、IT、法やルールだって、本来進化の象徴でなければならない。しかし、どうだろう、むしろ世界は、人の心は、荒み、より悲しみに溢れている。
だからこそ、わかりあいたいと思うのだ。わかりあうために、繋がり、語り合い、ふれあい、感じあおうとする。もしこの世に魔法があるとしたら、それは心の中にあるお互いが、わかりあおうとする心にあると。
人が、それぞれ心の中に求めるものなど、そもそも同じであるはずがない。わかりきれないし、愛し合う二人でさえも、その愛の形は違う。だが、それでいいのだ。それらが合わさって、全体として一つにしてみたら、形の違う二人の愛を合わせてみたら、なんか丁度いいよね、そんな感じが素敵だと思う。
人として、善き人として、善き関わりをもちながら生きる、それはとても尊いこと。
だが、心の中に、もうひとつの依るところは、誰もたどりつけない高みにたどりつき、愛するキミの生きる、キミが愛するこの世界を抱きしめて生きたいとも思う。そのためならば、善き人である、善き関わりを大切にする意味は無いとも思う。

愛という空間の、世界の中心から光を放つ、
あるいは、その空間を外から照らす、包み込む光となる。
その両方にたどり着くことはことは困難だろう。また、どちらか片方でもたどり着けたのなら、それはとても幸運なこととも思うが、同時に、一つづつの愛の完成にしかすぎない。片方の器を満たすことができても、もうひとつの器は空っぽ。未来を想像したときに、それはやはり、悪い予感となる。
愚かなものは、知らないわけではない。
人は人と合わさって、せめて二人でならば、悪い予感が消え去り、はじめて希望となって、だからなんとか、人が生きて行けることを。だとしても、愚かなものは、愛することをやめはしない。

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