2010年6月2日水曜日

「盟主」の条件

2010年6月2日(水)、鳩山総理が辞任を表明、と同時に、「代表が辞任されるのですから(党)役職も無くなる。」と小沢幹事長も辞任を表明。7月の参院選を控え、その1カ月前のダブル辞任は、まさに予想通りだった。
参考までに→2月4日の投稿記事「-『剛』と『豪』、小沢一郎氏不起訴、そして朝青龍の引退、現代のヒールの対照的な幕引き。- http://teratani.blogspot.com/2010/02/blog-post_04.html 」


2月の時点での観測としては、小沢ismの候補者を参院選に大量に投入した上で鳩山・小沢両氏の辞任は免れられないだろうというのは、大方読み通り。誰もが予測してたことではあろう。民主党は、参院選を勝ちに行くなら「前原・管」体制で行く、前原さんはまだ選挙してない、つまり負けたことが無いわけだから充分カードになる。小沢さんは、小沢ismの勢力に支えられていつでも戻れる、そのために人事権を握る幹事長職。

状況の変化は、これも予想範囲だったとはいえ、沖縄・辺野古の基地移設問題が官邸主導ではなく官僚主導に引っ張り過ぎられたこと。この事が決定的に民主党の支持を低下させ、参院選の目的が「勝つ」為ではなく、「負けない」=「捻じれ解消」になったこと。連立構想は、総理主催の「桜を見る会」などでも見えた公明党とだけではなく、議席の押し込まれ方次第でそれ以外のオプションが拡がった。その幅は大きく、「自民」との大連立「的」なものから、少数党連合とのもの、公明党、選挙結果によっては「みんなの党」や「たちあがれ日本」を中和剤に使うことも想定される。

よって、参院選後の政界再編の主構成は、「民主(小沢グループ含む)+公明」、あるいは「小沢グループ+自民党」に少数党が衛星のように配置されることになる。いずれにせよ、新政権のキャスティングボードは小沢グループ、ということは明確。前者「民主+公明」が福祉・教育中心の草食型政策、後者「小沢グループ+自民」が憲法改正・エネルギー資源外交中心の肉食型。
ボク自身の小さな政府を目指すという部分では違いもあるが、『日本肉食党』を標榜し、自由度と自己責任度を増すというイデオロギーを持つ日本肉食党としては、この国の未来ために、今の草食化し過ぎた現状を踏まえると、後者の方がバイアスとしては望ましい。

しかし、どうであれ、キャスティングボードは小沢さんにあることに変わりはない。
小沢一郎が、例えば自民党を焼け野原にしたいと思っているだけの「狂った老人」なのか、そうではなくこの国の未来をちゃんと見据えているか。結局この国の未来は、実は小沢一郎の「資質」、そんなちっぽけな事に委ねられている。どうであれ、盟主の「能力」がボトムネックになるのが世の常、現実はそういうもの、残念ではあるが。

国家の経営、在り方、それは人の生き方と同じで正解なんてないし、勿論これが正義というものも無い。例えば、世界有数のGDPを稼ぎだす国家である続けたいのであれば、国内的には草食的な政策、つまり多少自由度は低くても平和でエコで横並びな志向の政策を選べばいい。しかし、個人の自由や夢実現への願望、欲望、そういったものへの挑戦をすることが満足感のある生き方である、という志向が強いとしたら、肉食化は必要。自己責任度は高まり、それは心の満足と引き換えに国家の安定は若干揺らぐ。世界有数のGDPを稼ぎだす国ではいられない可能性は覚悟する必要がある。

「盟主の条件」とは何か?

現実の社会の在り様には必ず偏りがあり、その状況を正確に観測したうえで、どのあたりに引っ張ったら社会のバランスがいいか、いわば適正化のために、そして、せめて最悪のシナリオを招かないためのバイアスをかける、これが正しい「盟主」の役割。
故に、本当の「盟主」の力の根源は「正確な観察者」であることと、そのためのツールを持つこと。そのことで持った力を有効に使う手段として、人や能力を配するフィクサーになり、メディアを操り、或いは時に「結果」のために必要とあらば姿を隠す場合もある。「盟主」は志を見せる必要はない。見せる姿はすべて「結果」のためのフェイクであり、その都度必要と判断したバイアスに過ぎない。

他者から簡単に見える幅しか持たない者はまず「盟主」にはなれないし、なってはいけない。どんな正義や志があろうと、それは線であり面ではないから。だが、「盟主」たるもののあるべき心は、自身の独裁者であることと同時に人々の奴隷でなくてはいけない。それが「盟主」たるものの絶対的な条件。その心持が小沢さんにあるのかないのか。彼には「盟主」の条件は、見た目では揃っているが。

最悪のシナリオは何か?

これからの数カ月、ここまでの絵を描いてきた小沢さんが何も決めずに半ばで倒れ、あるいは死ぬようなことがあった場合だ。其の時は少数のパーティが乱立する混乱期を迎えることになる。例え最悪の「盟主」であっても、いないよりいた方がよい。決まるものが決まり、それによって人々は順応し、その事でなんとか生きていくことが可能になる。混乱は、また新たな「正義」や「志」を必要とし、新たな「盟主」が現れるまでは社会が迷走することになる。

主観で言えば、ボクは強いし健康でもあるから、カオスでも一向に構わないし、正直そういう混乱を好む。だが、俯瞰目線で言えば、迷走した社会が大量の犠牲者をつくる以上、それは政治的敗北に他ならない。多くの人々は、少なくとも保守的だし、混乱を望んではいないだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿