2010年8月14日土曜日

モラトリアムな街の風に揺られ

誰にでも優しい君は、誰からも愛され、

まだ若くて、美しくて、その優しさは無限だと思っているかもしれないが、

だけどそのままでいけば、君はいつか破滅を迎えるんだ。

みんなが優しくしてくれる、だから君はその人たちに心を許すんだよね。

ただ、この街に揺らいで、生きていく人たちには見たくない「未来」があるんだ。



人生がただの暇つぶしなら、生きていくには易しい街さ。

愛嬌をふりまき、酒を呑んでは意味の無い会話を重ね、そうして時間は過ぎていく。

朝日が昇るころに眠りにつき、目覚めた頃にはまた夜がやってくる。



煌びやかなネオンの下の蝶や花たち、

だが日の当たる明るいところに出てみればわかる。


そう、お前たちは以外ともう「大人」なんだ。

お前に優しい皆を大切にしたい気持ちは分からなくもない。

そうやって生きてきたんだし、そうやってしか生きて来れなかったのだから、

変える勇気が湧かないんだよね。



でも、体も心も一つしかないんだよ。

全てを大切にしようとしてたら、
いつかその優しさは君自身を覆いつぶし、思わぬときに、大事なものを失う。
ひょっとしたら一番大事なものを失う。



だから、人は大切なものに順番をつけるんだ。

一番大事なものを決めて、まずはそれを守る。

そして、心は痛むけど、いくつかの大事なものを諦め、切り捨て、
そうやって人は「大人」になっていく。



ぬるま湯につかって傷をなめあうこの街と、お前の優しさと酒は触媒になってるんだ。

そして、煌びやかなネオンは明るく眩しいけど、本当に映すべきものを隠してしまう。



そういう僕も、君の優しさに助けられ、癒され、なんとかやってきた。

だが、大人になろうとしてもがき始めた君が、今、気づきつつあるのなら、
今は、もうその優しさに甘えるわけにはいかない。

今優しさを口にすれば、結局それは君を傷つけていく。



君が君であるために、

僕が僕であるためにも、



モラトリアムな街の風に揺られながら、

君も僕も、

今はこれに勝たなくちゃいけない。

2010年6月2日水曜日

「盟主」の条件

2010年6月2日(水)、鳩山総理が辞任を表明、と同時に、「代表が辞任されるのですから(党)役職も無くなる。」と小沢幹事長も辞任を表明。7月の参院選を控え、その1カ月前のダブル辞任は、まさに予想通りだった。
参考までに→2月4日の投稿記事「-『剛』と『豪』、小沢一郎氏不起訴、そして朝青龍の引退、現代のヒールの対照的な幕引き。- http://teratani.blogspot.com/2010/02/blog-post_04.html 」


2月の時点での観測としては、小沢ismの候補者を参院選に大量に投入した上で鳩山・小沢両氏の辞任は免れられないだろうというのは、大方読み通り。誰もが予測してたことではあろう。民主党は、参院選を勝ちに行くなら「前原・管」体制で行く、前原さんはまだ選挙してない、つまり負けたことが無いわけだから充分カードになる。小沢さんは、小沢ismの勢力に支えられていつでも戻れる、そのために人事権を握る幹事長職。

状況の変化は、これも予想範囲だったとはいえ、沖縄・辺野古の基地移設問題が官邸主導ではなく官僚主導に引っ張り過ぎられたこと。この事が決定的に民主党の支持を低下させ、参院選の目的が「勝つ」為ではなく、「負けない」=「捻じれ解消」になったこと。連立構想は、総理主催の「桜を見る会」などでも見えた公明党とだけではなく、議席の押し込まれ方次第でそれ以外のオプションが拡がった。その幅は大きく、「自民」との大連立「的」なものから、少数党連合とのもの、公明党、選挙結果によっては「みんなの党」や「たちあがれ日本」を中和剤に使うことも想定される。

よって、参院選後の政界再編の主構成は、「民主(小沢グループ含む)+公明」、あるいは「小沢グループ+自民党」に少数党が衛星のように配置されることになる。いずれにせよ、新政権のキャスティングボードは小沢グループ、ということは明確。前者「民主+公明」が福祉・教育中心の草食型政策、後者「小沢グループ+自民」が憲法改正・エネルギー資源外交中心の肉食型。
ボク自身の小さな政府を目指すという部分では違いもあるが、『日本肉食党』を標榜し、自由度と自己責任度を増すというイデオロギーを持つ日本肉食党としては、この国の未来ために、今の草食化し過ぎた現状を踏まえると、後者の方がバイアスとしては望ましい。

しかし、どうであれ、キャスティングボードは小沢さんにあることに変わりはない。
小沢一郎が、例えば自民党を焼け野原にしたいと思っているだけの「狂った老人」なのか、そうではなくこの国の未来をちゃんと見据えているか。結局この国の未来は、実は小沢一郎の「資質」、そんなちっぽけな事に委ねられている。どうであれ、盟主の「能力」がボトムネックになるのが世の常、現実はそういうもの、残念ではあるが。

国家の経営、在り方、それは人の生き方と同じで正解なんてないし、勿論これが正義というものも無い。例えば、世界有数のGDPを稼ぎだす国家である続けたいのであれば、国内的には草食的な政策、つまり多少自由度は低くても平和でエコで横並びな志向の政策を選べばいい。しかし、個人の自由や夢実現への願望、欲望、そういったものへの挑戦をすることが満足感のある生き方である、という志向が強いとしたら、肉食化は必要。自己責任度は高まり、それは心の満足と引き換えに国家の安定は若干揺らぐ。世界有数のGDPを稼ぎだす国ではいられない可能性は覚悟する必要がある。

「盟主の条件」とは何か?

現実の社会の在り様には必ず偏りがあり、その状況を正確に観測したうえで、どのあたりに引っ張ったら社会のバランスがいいか、いわば適正化のために、そして、せめて最悪のシナリオを招かないためのバイアスをかける、これが正しい「盟主」の役割。
故に、本当の「盟主」の力の根源は「正確な観察者」であることと、そのためのツールを持つこと。そのことで持った力を有効に使う手段として、人や能力を配するフィクサーになり、メディアを操り、或いは時に「結果」のために必要とあらば姿を隠す場合もある。「盟主」は志を見せる必要はない。見せる姿はすべて「結果」のためのフェイクであり、その都度必要と判断したバイアスに過ぎない。

他者から簡単に見える幅しか持たない者はまず「盟主」にはなれないし、なってはいけない。どんな正義や志があろうと、それは線であり面ではないから。だが、「盟主」たるもののあるべき心は、自身の独裁者であることと同時に人々の奴隷でなくてはいけない。それが「盟主」たるものの絶対的な条件。その心持が小沢さんにあるのかないのか。彼には「盟主」の条件は、見た目では揃っているが。

最悪のシナリオは何か?

これからの数カ月、ここまでの絵を描いてきた小沢さんが何も決めずに半ばで倒れ、あるいは死ぬようなことがあった場合だ。其の時は少数のパーティが乱立する混乱期を迎えることになる。例え最悪の「盟主」であっても、いないよりいた方がよい。決まるものが決まり、それによって人々は順応し、その事でなんとか生きていくことが可能になる。混乱は、また新たな「正義」や「志」を必要とし、新たな「盟主」が現れるまでは社会が迷走することになる。

主観で言えば、ボクは強いし健康でもあるから、カオスでも一向に構わないし、正直そういう混乱を好む。だが、俯瞰目線で言えば、迷走した社会が大量の犠牲者をつくる以上、それは政治的敗北に他ならない。多くの人々は、少なくとも保守的だし、混乱を望んではいないだろう。

2010年5月20日木曜日

HAPPY BIRTHDAY

その夢は
相矛盾した二つの

一つは大層な
身の程しらずの

もう一つは
ちっぽけな
誰にでも手に入りそうな
他愛のない

いつも揺らぎながら

どちらにもたどり着くことなく


ここまでは
自由に生きてきたようで

だが振り返れば
道は結局一つだったようでもあり


囚われていたようで
だが
得難いものも得た気もする

未完の代償は
やがて支払うことになるか

あるいは
運良く

それを越えて
安らげる日もあるか

今日までは
愛する人を愛する思いが
自分を強くしてくれた


だが
未来への時は刻まれる
刻々と


今日一つ
明日も一つ

毎日何かの扉を開く


もう少し思いのまま

そして

もう少しありのままに


愛しきることも足りず
夢に届くにも力及ばず
ただ誰もが未完

だとしても


持てる時と命を
燃やしきる


その向こうにある世界が見たいんだ


鼓動する命と
流れる時を感じながら


精一杯
未来を
迎えに行く



近くと遠くを見つめて
毎日前へ


僕を強くしてくれた君へ
HAPPY BIRTHDAY

2010年5月9日日曜日

「東大解体」

ガバナンス(統治)の能力が欠けている組織、それは政府であれ行政であれ、あるいは会社であれ、大抵規制や法、ルールに手を加えて何とかしようとする。だが、それは活動そのものの自由を奪うことにほかならず、自ら自分の首を絞めることになる。そもそも統治能力が欠けているわけだから、強権的にしか秩序を保てない。それが何を生み出すかといえば、暴力であり、そして、「暴力」はやがて「暴力」によって破壊される。これは歴史的必然であり、しかし、それは極が入れ替わるだけにすぎない。社会的弱者が左から右に変わるだけで、 そもそもどちらかの「弱者」に強いる社会には変わりない。進歩とは言えない。

例えばだが、正直、この国が沈んでもボクは構わない。健康だし、それなりに強い。むしろカオスの方が性に合ってる。ただ、そういう社会は必ず弱者を切り捨てる。弱者とは、お金があるとか無いだけではない。混乱に於いて、貨幣は紙切れ同然、そんなものは役に立たないし、必要であれば「強いもの」は、その「強さ」で奪うこともできる。シンプルに「強い」か「弱い」かの社会、弱者とは、年寄りであり、子供であり、女であり。ボクにも、その「弱者」の中に愛するものがいる以上、無策にそこへ向かわせてはならないとも思うし、それは政治的に言えば敗北、まさに愚鈍。本来政治は「弱者」のものでなくてはならない。

この国は、今、そこに向かっている。社会を見渡せば、その景色は際立っているとは言えないかもしれないが、内在するストレス、怒り、あきらめ、そういうものが日に日に増幅していっているのは多分誰も否定は出来ないだろう。この国は自らの力で改革や変化をするタイプの国ではない。それはおそらく外国から入ってくるだろう。

アメリカでティーパーティ運動が盛んになってきている。ティーパーティー運動(Tea Party movement)とは、2009年からアメリカ合衆国で始まった、バラク・オバマ政権の課税政策、あるいは「大きな政府」路線に対する抗議姿勢を中心とした保守的政治運動を言う。米政府の歳出削減や減税などを訴え、反オバマ(大統領)色を強める「ティーパーティー」の初の全米集会が2月6日にテネシー州ナッシュビルで開かれるなど、運動の規模は更に拡大の一途をたどっている。ティーパーティ運動のは、イギリスの茶法(課税)に対して反旗を翻した1773年のボストン茶会事件(Boston Tea Party)に由来、「もう税金はたくさんだ」と、増税を強要する政府を「悪」とする考え方に立脚している。今後この運動は、ギリシャの財政破綻によるEUの緊縮化にも伴って、それに反発する形で世界的に拡大していくだろう。そして、どこかの国で、あるいは、場合によってはアメリカ自体で大きな変革を作る。例えば、内戦、国家分断・・・丁度再来年、『2012』年を迎える世界は、オカルチックな終末論が漠然とした不安感を増幅させるトリガーに成りうる。引き金が引かれた時、ティパーティ運動は、単なる「運動」ではなく、税を払わない、政府=悪、法律を守らない正義、というカオスを迎えることになる。
日本人特有の「浅さ」がこれによって刺激を受け、「アメリカでいいならオレたちも」、ティパーティ運動はこの国に輸入されて変質し、様々な思想と入り乱れて日本も混乱の時代を迎える。これは、予測というとり、一種の予言でもある。

さて、カオスな時代がやってきても、オレは構わない、むしろ好都合、とは言ったものの、愛するもののために、そうではない、一度国が「沈む」にしても、もうすこし「ショック」の小さいソフトランディングなほうがいい。それが政治でもあるから。

そこで、この国が向かうべきは、まずは財政破綻しつつあるこの国の政府を極限まで小さくする必要がある。これまでも書いてきたが、「政府」であれ「行政」「法律」、あらゆる権力は「必要悪」であり、無くて上手く回るならそれに越したことはない。政府を小さくというのは、財政的にも人員的にも、そして権力構造も含め、小さく、または分散するという意味。つまり、地方分権と同じベクトルに向かう。

国家の形として、地場産業が育った江戸時代の300諸侯の行政区分が、地勢的にもコミュニケーション範囲としてもサイズとして最も丁度いいのではないか、基礎的自治体の姿はそのようなもので、その上で法構造を条例>法律、もしくは全て条例化し、法律をなくす、基礎的自治体の自由・自立を高め、それらを緩く連携する連邦国家の姿がこの国には相応しいと考えている。

だが、付き合いのある官僚たちの中で、地方分権を本気で考えているヤツがどれだけいるのか?実際は皆無であり、それはなぜかと言えば、「頭の悪い」地方公務員にガバナンスを任せるわけにいかないということを知っているから。この判断は、「今」は正しいが、しかし、それでもいずれ地方分権は必要、ではどうすればいいのか?そのためには法体系や財源だけではなく、知恵も権威も分散させることがどうしても必要不可欠なのだ。

法体系、財源(税制)、そして知識やノウハウというものはシステマチックにやろうと思えば出来なくもない。しかし、どうしても官僚からみた地方公務員の目線、あるいは羊牧化された国民が持っている「お上」という根強い価値感は、これまでのガバナンスにおいては「便利」だし、「従順」な国民はまさに手なずけるに容易かったが、一歩一歩民主化が形として現れ始めた今の、そしてこれからの「日本」にはどうしても合わないものになってきている。
日本人は極めてコンプレックスの強い国民だ。島国らしいといえばらしいのだが、その国民が変わり始めているというのに国家が変われない、変われないから閉塞感が強い、まるで糖尿病患者のようにゆっくりと国を蝕んでいっている。変われない理由は何か、国家を根幹で支えている「価値観」、つまり「権威」をどうしても壊さないとどうもこの国は変われないようだ。

そして、その「権威」の象徴は何か?ずばり「東大」である。
たとえば、それを証明するのは法治国家の根幹である法務省人事などに見られる。勿論「東大」にも功と罪はある。だが、はっきり言って、「東大」の権威は、これまで、ガバナンス上、とても「便利」だったし、利用されてもいきた。一方で、官僚組織や政府構造にもたらした弊害、カルチャーの独占がこの国の脱皮を妨げている。本来の学問や研究の場ではなく、広い視点での有用な人材選抜や登用を拒む「虚構の学問」の門として、まさに歴史的に存在し続けてきた、それが「東大」がある。この現実を、そして、この弊害を認識しなくてはいけない。

「東大解体」論は40年前もあった。しかし、それは所詮右翼・左翼の「プロパガンダ」に利用された稚拙な運動に過ぎなかった。だが、今こそ、「東大解体」を議論すべき時であり、それを越えられなければ、間違いなく、この国は、あと数年でカオスを迎えるだろう。

2010年4月23日金曜日

『必要悪』

歌舞伎町のホストクラブ、今では160件を超える。
供給過多と営業時間規制が相まって、客引きが横行、来街者の体感治安は悪化の一途をたどる。

かつて、2000年前後まで、歌舞伎町にはホストクラブと言われる店舗は60件程度だった。
深夜に営業し、仕事を終えた夜の蝶たちが慰安の時を過ごす、いわばそういう場所だった。
2003年あたりから、この夜の業界に変化が起きた。
メディアがホストを華やかに取り上げ、漫画やドラマが光を当てた。

所詮ホストに品などは無い。しかし、その下品さの中にあるギラギラ感が、バブル崩壊以降の窮屈な国民感情に響くものはあったのだろう。
そして、その幻想感が人と金を集めた。

60店舗程しかなかったホストクラブが、一時は250件にも膨れ上がった原因は、いわゆる『外資』があったから。

『外資』とは何か?何も、外国資本という意味ではない。
夜の業界の常識、それはホストクラブはすべてやくざ。
100%、何かしらの形で暴力団と関係があった。
しかし、それだけの世界ではこのバブルは起きない。
ホストバブルが起きたのは、その世界の資本ではない資本、つまりカタギの資本が入りこんできたからである。いわば、これを『外資』という。

ここで何が大きく『秩序』というものが大きく変化する。

100%ヤクザ、あるいはそういった関係の強い世界には、当然のことながら秩序がある。法律ではない。法律を超えた掟が存在し、それが絶対だった。客引きだって好きにはできないし、移転や引き抜きなんて御法度、ホストとはいえ、暴力団と変わらない。親と子、親の言うことは絶対だった。

白いもを黒と言えば黒、そういう世界だった。

それが、『外需』によって一変したのだ。経営者は素人、社長と言っても雇われの頭の弱いホスト、そもそもやんちゃな奴らが集まる夜の世界、秩序をもって仕切れるやつなんか皆無に等しい。

どうなるか、想像に難くない。当然そこは無秩序になった。

時代は暴力団を排除に向かった。暴対法は強化され、組名を名乗るだけでも逮捕される。暴力団員は無力化され、夜の世界の秩序は崩壊に向かった。その秩序を警察が、あるいはカタギが変わって守る、というのであればそうはならなかったかもしれない。
しかし、警察もカタギも所詮素人、そこに営業時間規制が強化されれば、当然、苦し紛れに客引きは横行し、夜の蝶ではなく一般の女性にも向かう。そして体感治安は崩壊した。

これは、一つの例に過ぎない。

暴力団を『必要悪』というわけではないが、社会の自由を守るために適正な秩序をもたらす上でやむを得ず存在するのが『権力』である。そして、その『権力』を担保する、あるいは実行する、そのために掟やルールは存在する。国家であれば、法律がそれにあたる。

人間の自由を求める本質と、それを若干規制することで社会の公正さを保つ、そのための掟やルールが存在するのは、一面的にいえば人類の進化の証であるともいえる。1人の人間の利害より社会の公共の利害は優先されるというのはしょうがない。人間は社会の中で生きているから。

しかし、それは社会を構成する全ての利益を担保するものではない。あくまで、マジョリティ側の利益であって、またマジョリティに権威を委ねる民主主義の構造に正当性が委ねられていなくてはならない。

もし、仮に法律も掟もルールも権力も存在しなくても、社会が上手くまわるのであればそれに越したことは無い。暴力団も、無くて済むならもちろん無い方がいいに決まっている。法を執行する権限を委託されている公務員、警察官も、いなくても社会の自由と構成が保たれるのであれば不要。

そこに答えはある。

権威も権力も、法律も掟も、政治も行政も、モラルも宗教も、もちろんヤクザも警察も、全て同じカテゴリーの中に存在している。要するに『必要悪』。

必要悪は『悪』、故に決して肥大化してはいけない、最小限でなくてはならない。そして、暴走をさせないために監視もしなくてはならない。

仮に、暴走し始めたらどうするか?

その時は、壊すしかない。壊して、創りなおさなくてはならない。その時は、血が流れることもあるかもしれない。誰かが悲しい、不幸を背負うことになるかもしれない。
だが、それを壊すべき時に壊せなかったら、その時は、魂が死ぬことになる。


暴走のシグナルは何か?始まりは何か?
それは『必要悪』が正義を振りかざした時。

2010年4月11日日曜日

14インチ/100年(100年分の14インチ)

明日は会えるかな。
1年後は会えるかも。

そんな日が100回続いたら、
それは君に会えないってことなんだ。



23歳のシンガーソングライター、笠井 舞さん。
カメラを回す手が、思わず、不覚にも震えた。


「素直に、さびしいな、悲しいなとか思いずらい時代になってる。
いちいち泣いてる自分は恥ずかしくないのに・・」と彼女。

結局、ゴメンネも
さよならも言えないボクは
何がしたいんだろう。




そうだね。



もう少し、素直に、思うように、感じたままに生きていいんじゃないかな。

2010年3月20日土曜日

「ボクと君の物語」

文字にならない言葉がある
音符に出来ない歌がある
写真に写らない景色がある
誰にも語られない人たちがいる


君はそういつも
叫び続けていた

独りっきりで
あの場所で
なぜ命を削るように

血が流れても

それでも君は
前に進もうと
歩みを止めなかった

誰も知らない

いつかの君とあの街の物語


嘘は見抜き
真実を見据える
その時はとても強い君

でもボクの話を聞いて
涙を浮かべた優しい人

他に生き方がわからないと
そうボクの手を握ったまま
静かに眠りにおちていく君は

世界で一番弱い人

大好きだった
君のことが

少し休んでもいいよ

君がそうしたいのなら
ボクが見ててあげる

一息ついて
涙が乾くまで
抱き合って

大好きだったから
怖かった

あの日のボクと君の物語


だれにも愛されず

全てを愛そうとした君
その時はとても強い君


でもボクの話を聞いて
涙を浮かべた優しい人

他にはなにもない

そうボクの手を握ったまま
静かに眠りにおちていく君は

世界で一番弱い人

大好きだった
君のことが


少し休んでもいいよ
君がそうしたいのなら


ボクが見ててあげる

一息ついて
涙が乾くまで
抱き合って

ボクかそばにいてあげる

ボクが君を
つれていってあげる


幸せな終わりを
信じていいよ


これからの

ボクと君の物語

2010年3月3日水曜日

ネオ・アナーキズム

アナキズムまたはアナーキズム (Anarchism) は、一般的には『無政府主義』と訳される場合が多いが、その『無政府主義』とは、決して無秩序状態を指すわけではなく、権力構造としての「政府」、あるいは「国家」を持たない、社会において、第一義に可能な限りの自由な秩序を志向する。 「国家を廃絶し、自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立を主張する思想。」とWikipediaにはある。


世界はすでに調整期に入った。グローバル化によって、発展途上国の低賃金は輸入品の、様々な商品の価格内に存在し、我々の生活コストの中に染み込んでいる。
もはやその流れは止められない。世界を見ると、成長はどこにあるのか?といえば、まさにかつての発展途上国の中にしか存在しない。友人の商社マンがこんなことを言っていた。「石油が余ってきている。我々は、環境とか言わなくて済む国に行って石油を掘り、火力発電所を作り、売電し、それで稼いでいる。」と。そんな収益が、実に8割を占めている、という現実。まさに、世界は“肉”なのだ。

これまでの世界の既得権益を持ってきた先進国は、国内では“省エネ”“温暖化ガス排出削減”といい、あるいは“行財政改革”などといいながら、国家のスリム化を進める。一方で、既得権益の外にある、むしろそちらの方が大きい『世界』では、強烈な“肉”的競争を繰り広げ、権益を得る戦いを繰り返している。

そうでもしないと、“国家”の経営は、実に厳しい状況になってきているのだ。


こうして、一見自由で民主的とも思える国家像は、実は全く異質な社会民主主義的化していることに我々は気付くべきだと思っている。つまり、そうでもしないと“国家”の経営は成り立たない故に、CO2排出削減だのエコだの、あるいはムダ削減とか行財政改革とかが存在している。国家や行政は、この“調整”のため、より強権化し、肥大化し、固有のナショナリズムを助長し、しかし、サービスは低下する。

我々は、ここで考えなければならない。
国家とは何か、政府とは何かを。

多分、これは“必要悪”なのだろう。

国民の主権を守るための構造的な単位であるはずの“国家”が、あるいは政府が、国民の主権を蔑にしていいわけがない。だが、その単位を守るために、こうした調整があるとしたら、あくまでこれは“必要悪”なのだ。
つまり、“必要悪”であるならば、目指すべき志はどこにおくべきか?という問いに対し、僕は“自由”と答えたい。
社会は、権力や権威をもって統治されるべきではない。逆に、自由で対等な社会編成によって緩やかに構成されるべきであり、その阻害要因となりうるものを排除する。そこに既得権益の排除、全体主義のための権力や権威の排除といったことに正当性を見出す。

道州制の考え方は、ある意味これに近い。
昨年、総選挙前のことだが、海江田万里氏にインタビューを行ったときに、地方分権の考え方についてこんなことを言っていた。
「地方分権というとすぐ道州制っていうけど、僕らはあんまり道州制よりも、もうちょっと今、基礎的自治体と言ってもっと生活に身近なところを再編成していって、そっちに中心をおいていこうと言う考え方なんだけれど。地方分権、たとえば海外にはいろんな例があるよ。ドイツなんかはそうだな、フランスはどちらかというと中央集権に近い。歴史的にみると、江戸時代の日本を連想してみればいいってよく言うんだよ。もちろん僕は生きていたわけじゃないけど、ものの本で読んで知った江戸時代だけれども、江戸時代というのはそれなりに300諸侯いてさ、それぞれ教育から何から警察から全部(地方)が握っていて、生活、産業までそうだよ。で、意外とうまくいってた時なんだよ。で、国防だとか、外交だとか、通貨の発行だとか、これは江戸幕府がもってたということで、もちろん今中央政府の役割というのは他にも増えてきているけれど、基本的には江戸時代みたいな幕藩体制みたいなのを想定してもいいんだよ。それが案外結構、今でも地場産業ってのはだいたいその時代に興ってきたでしょ。だからそういう形に大胆にさ、地方分権を進めると。」

言ってみれば、基礎的自治体の中をなるべく自由な市場社会とし、これを全体で緩やかに手をつなぐ、これが彼の話していた国家像ということだった。

だが、実際のところ、この議論はまだまだ先になるだろう。民主党政権になってもなお、小沢ismによる権力闘争がまず先で、国家のデザインは先送り、そうこうしている内に、官僚主導による“必要悪”的な国家経営がむしろ思想を逆行させ、残念ながら、政府の強権化、肥大化、そして既得権益保持に向かわせている。

そして、まだまだハードルもある。

意外と論じられてない法律構造の問題もある。法律は、いわば社会の外郭にある薄皮のようなもので、その外にあるものから内側にある社会を守るためのものであるべき。しかし、今の法は真ん中にある。あたかもそれがモラルか正義であるかのように存在している。法令遵守が社会をむしろ悪くしているという人たちも少しずつ増えてはきたが、これじゃ、息が詰まってしょうがない。基礎的自治体ごとに、その地域にあった条例が上位にあるべきで、国の法律は、全体を緩やかに手をつなぐ程度のソフトローでいい。あるいは法律は条例の下位にあればよい。もしかしたら憲法だけあればいいのかもしれない、とさえ思う。
出来れば、法令もルールも無くて社会が成立するのならその方が良い。だが、そうはいかないから、やむを得ず、これも“必要悪”として法は存在する。したがって、“必要悪”に過ぎないものを正義であるかのように振りかざすのであれば、そんな権力は、あるいは権威は無用だ。

"Anyone who trades liberty for security deserves neither liberty nor security. "
「安全のために自由を引き替えにする者は誰も自由も安全も受けるに値しない。」ベンジャミン・フランクリン

私自身の考え方はこうだ。

政府であれ国家であれ、要はこの国のそういう権威、あるいは権力に、それでも“国民の家”であるべき国家のデザインをする権利が保持されていることを、私は許容出来ない。そこでデザインされた国家が、再び、どこかで不都合があっても、あるいは誰かが不幸になり、しかし、それでも政府はもちろん、結局誰も責任を取らない。その時、もし“政府”からこの国家を自治、あるいは統治する権利を剥奪できるのならまだしも、そうでないならば、この国家にあるすべての誰かが決めてきたデザインを拒否する。あるいは、必要とあらば破壊する。

せいぜい「自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立」さえあれば充分。

これが、私の考えるネオ・アナーキズムです。

2010年2月4日木曜日

『剛』と『豪』、小沢一郎氏不起訴、そして朝青龍の引退、現代のヒールの対照的な幕引き。

小沢一郎氏不起訴、そして朝青龍の引退、現代のヒール(悪役)の対照的な幕引き。

2月4日、二人のヒールの幕引きが、ほぼ同時に発表された。
一方は、政治資金規正法違反で嫌疑がかかっていた与党民主党幹事長の小沢一郎氏。部下の3人の元秘書は起訴され、当の本人は不起訴処分とは言え道義的責任はまぬがれない。
もう一方は、場所中の飲酒トラブルによる引責的引退を発表した横綱・朝青龍。



小沢氏不起訴、小沢氏の元秘書・石川衆議院議員、元私設秘書・池田光智氏は起訴、元公設第1秘書・大久保隆規氏は追起訴。小沢氏の政治団体陸山会等の政治資金虚偽記載による政治資金規正法違反で元秘書3人は起訴または追起訴、当の管理責任者である政治家本人、小沢一郎氏については、検察は、“嫌疑に十分な証拠が不十分”ということで小沢氏の不起訴を決めた。なお、野党・自民党は、なお小沢幹事長の道義的責任追及を強めると同時に石川衆議院議員の議員辞職勧告決議案を2月4日中にも提出することになっているという。



朝青龍、幕内優勝25回、平成の大横綱と呼ばれたモンゴル出身の第68代横綱。2010年初場所の最中でもある1月16日に飲酒による泥酔トラブルを起こしたと言われている。その後、この場所を13勝2敗で優勝している。
週刊誌等では知人男性との暴力トラブルとなっているが、本人が酩酊状態だったこともあり、総方の言い分や報道の真偽は明らかではないが、2月4日付けで日本相撲協会からの横綱の品格における、いわば道義的責任による引退勧告を受け、本人同意のもと引退を発表。
会見で朝青龍は、「言葉も違う中で、大草原の少年をここまで支えてくれた方々に感謝します。25回優勝もしたし、相撲に対する悔いは一切ありません。」と語った。会見場を去る朝青龍を見送る記者たちから「横綱!ありがとうございました!」という多くの掛け声が印象的だった。


いみじくも、同じ日に、二人のヒールの幕引きがほぼ同時に報じられたことは何かを意味する感がある。


朝青龍は、これまでも「横綱の品格」にそぐわない数々のトラブル、事件報道がされてきたが、一方で今の相撲界の人気を支えてきた人物。若干29歳と、いわばまだ青年の域にあるといえるこのモンゴル青年の幕引きは、一言でいえば潔いと言えなくもない。
「いつかはこういう日が来ると思っていた。」と彼は言っていたが、本人の言うとおり、たしかにやんちゃではあったが、まさに『大草原の少年』のまま相撲界を去ることになった。
朝青龍はもともと酒の強い方ではなかった。付き人は、泥酔しないように進む酒を徐々に薄め、最後は水になるような気遣いをしてきた。時折、感情を露わにして号泣したりする場面もあったと言う。そうした少年のままの姿と、しかしそんな泥酔事件のあった場所においても優勝してしまう、いわば『豪』という言葉が似合う姿を併せ持つ、愛するべき男だったと思う。相撲は神事、横綱は神の寄所、いわば神聖なものであるという旧来の日本の文化・伝統と、彼の持つ少年の部分が合わなかったということだろう。
『横綱』として、あるいは“クビ”はむしろ遅すぎたようにも思う。一方で、その人気にあやかるざるを得ない相撲界そのものの伝統文化継承の担い手としての自覚不足と言えなくもない。だが、“引退勧告”という、ある意味朝青龍に潔さという美学を用意した相撲界と、朝青龍自身の選択は、双方の敬意と愛情を示した出来事であり、そこに一途の光を感じた。



小沢一郎氏、衆議院議員(14期)。民主党幹事長(第9代)。自治大臣(第34代)・国家公安委員長(第44代)、自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首、民主党代表(第6代)、民主党代表代行(筆頭・選挙担当)を歴任。55年体制後の日本を代表する政治家。「剛腕」の異名を持つ、日本国外では「影の将軍」「曹操」とも評されている。
初当選は27歳のとき、当時その選挙を指揮した自民党幹事長だった田中角栄氏から可愛がられ、自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、1985年(昭和60年)に第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。
田中角栄氏がロッキード事件によって政治から追放されて以降、その継承に当たる金丸信はその派閥を自ら小沢氏に引き継がせていった。

宮沢内閣の解散以降、自民党の分裂や新党結成ブームの火付け役として小沢氏が中心的役割をする。もうすでに、この時自民党は終わっていたのかもしれない。小沢氏はこのころから二大政党制を唱え、新進党、自由党と相次いで結成するが、1998年に小渕内閣の官房長官だった野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕内閣との間での連立政権について合意。そして1999年1月14日正式に自自連立政権が成立、この連立の間に衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。

野中氏は、この時のことを感慨深げに語っていたことがある。

「自民党はすでに壊れていた。この国のために、なんとか存続を図る意図で、公明党さんにお願いしようと思った。だが、それまで与党にいたことのない公明党を招くにはどうしても『座布団』が必要だった。そこで、小沢さんに白羽の矢をたてた。公明党に近い小沢さんと組んで、それを座布団に公明党さんに自民党を支えてもらう。それがこの国のためだと信じていた。」と。

1999年7月、公明党が政権入り、自自公連立政権が成立。自自公連立は衆議院過半数を押さえ、数字的には安定多数、野中の構想は成功したが、そのことでもともと『座布団』に利用した小沢・自由党の影響力は低下、小沢が唱えていた政治・行政改革は遅々として進まなくなる。小沢は当初自民党復党を模索、中曽根康弘や亀井静香らは小沢の復党を認める方針であったが自民党内の反小沢勢力と対立、「復党が認められなければ連立解消」と主張し、結局連立を解消した。この直後、小渕総理は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した。

小沢はそれでも二大政党制を模索した。2002年、現総理の鳩山由紀夫(当時民主党代表)らが設立した民主党と民主・自由両党の合併協議を開始、一度は小沢アレルギーのあった民主党内の反発で頓挫するが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを条件に、両党間で合併が実現、今の民主党の基盤となった。

2001年、「自民党をぶっ壊す!」と息巻いて現れた小泉純一郎氏が総理になり、改革路線において民主党と自民党は争点を失う。そんな中で国民的人気の小泉総理の陰に隠れ、民主党の不遇期が続いたが、小泉氏退任後、もはや票は公明党におんぶにだっこの自民党には底力が失われていた。そのまま消耗戦の中で、2009年に政権は小沢氏の念願通り二大政党制の中で民主党に移ることになった。

小沢氏が民主党政権獲得後、インタビューでこんなことを言っていたことが印象深い。

「日本らしさ、日本の良さ、そこに自民党は成り立ってきた。しかし自民党はそこに胡坐をかいてしまったんだな。だから国民に切り捨てられた。もう一度、日本らしさ、日本の良さを見つめなおしたい。」と。


今思えば、宮沢内閣解散がすでに自民党の終わりを示唆していた。野中はそれを延命治療したにすぎない。小泉純一郎は、いわば外科手術だった。しかし、結局は、自民党は消耗し、疲弊し、おそらく消滅、もしくは社民党化していくことだろう。だが、小沢は今でも二大政党制を唱えている。健全な民主国家にあるべき姿として、民意の上に形成されるべき政治体制は二大政党制だと。

「日本らしさ、日本の良さ」を信じる小沢らしい、日本人を、日本人の民意を心から信じているのだろうと感じる。



個人的には、「青臭い」と、いい年をした『剛腕』の大政治家を前に失礼とは思うが、ホントに、いや、意外とか、青臭い。良くいえば純粋だなと。この国には、まだ民主主義は根付いていない。民意をなんたるかを知らない。民意とわがままを区別できない、まだまだその程度の国だと思っているから。そんな『民意』の上に、民主主義の上にしか成立しない二大政党制がなじむわけはない。


その、『剛腕』と言われた小沢氏も、老いには勝てないということだろう。
あまりにも焦りが見え隠れする。闇将軍なら闇将軍らしく、裏にいて差配すればいい。
民主党が政権を奪取した、その経費を小沢氏と鳩山氏は『政権オーナー』として、鳩山氏は私財を、小沢氏はゼネコンマネーと田中・金丸金脈で支払った。そういうことだ。私財を投じた鳩山氏はまだいいとしても、小沢氏はどうしたって『ヒール』(悪役)はまぬがれられない。不起訴とはいえ、部下3人の逮捕・起訴により道義的・政治的責任は極めて重い。しかし、にもかかわらず、それこそ朝青龍の潔さとは対照的に権力にとどまり、いや、しがみつく。『老い』とはこういうものか。

国民による国民の政治を謳う民主党の、それでも個人献金の無いこの国で政権を奪うにはそれ相応の経費が必要なのは当然のこと。

信念のためにダーティな受け皿を演じきってきた小沢氏も、高齢なうえに持病の心臓病もある、時間がない、それが焦りとなって彼を前に引き出してしまった。そして権力にしがみつく、潔さとは程遠い。
まさにそれが、彼の最後のミス。

だが、『幹事長』小沢は、参院選の候補者選定を終えるまでこの職に固辞するのだろう。
小沢ismを叩き込んだ議員をどれだけ輩出できるか、そのための『幹事長』。参院選を控え、彼の思惑通り候補者を選定できれば、その後は、自ら辞職カードを切る。そして、鳩山総理に変わり、民主の顔を前原氏に。前原で初めて戦う参院選、国民は政界再編の幻想感を抱き、再び民主党に投票してしまうのか・・。

小沢ismの政治家たちが民主党内をどれだけ掌握できるか、それによっては、小沢はいつでも戻れる基盤をつくる。残念ながら彼の計画は、おそらく実現してしまうかもしれない。

が、そうはいかない。必ず、どこかで誰かがこの姑息な彼の権力に対する固執に気づくだろう。
そして、小沢一郎は終わる。民主党が壊れ、半壊している自民党と再び再編へと向かわせる何かのベクトルが必ず生まれると期待している。


日本は自由社会で、やがて民主主義も根付く時期はくるかもしれない。が、それまでのプロセスとして、今があるわけで、今や高度な未来戦略を設計しなくてはならない切羽詰まっている状態の日本で、むしろ民主主義は無理がある。

少数の優秀な人材が、密室で構わない、しかしそれこそ命懸けで、『民意』という軽薄な正義に振り回されることなく15年、30年、50年の未来へのシナリオを作り出さなくてはならない。小沢氏の理念は正しい。しかし、現実には、まだ時期尚早なのだ。あなたの残り時間とこの国の先行きとの時間軸的な隔たりを知るべきだった。民主党は割れるべきで、自民党の一部と連携して安定多数の政界再編を実現し、少なくとも15年、この国はまだ本当の民主化をしてはいけないと思う。


小沢氏の不起訴が決まった。残念ではある。検察の捜査によって、それこそ刻印の無い金塊の話から何から何まで近代政治の闇がすべて明らかになることを期待はしていた。それは、法律違反がどうとか、収賄がどうとか、北朝鮮がどうとか、そういう話ではない。この国が、この日本がどういう国なのか、国民はそろそろ知るべきだと思うからである。まだまだ途上国並みの民度にあるということを。その上で、国家の生存を懸けて、ではいったい何からやればいいのか、国家が滅びても、日本人は生きていける、そう考える方法だってある。このぬるま湯の中で、ゆでガエル現象じゃないがゆっくりと力を失いつつあるこの日本の姿をもう少し真摯に向き合う必要がある。

何が日本の良さなのか、ひょっとしたら、あるいはそれがこの国の元凶なのかもしれない。


自分は、『剛』でも『豪』でもない、小さな存在ではあるが、分かる人には分かるだろうが、同じくある仕事において『ヒール』でもある。一応それを貫いてはきた。勿論途上ではあるが。

『ヒール』は“悪”ではない。“悪役”なのだ。

朝青龍は引退、小沢一郎はグレーとはいえ事実上有罪宣告、まったく違うが、だがともに『ヒール』の二人、彼らの人生がこれで終わるわけでなくとも、形はどうあれ、信念の前では小さなミス、『豪』は自らの若さゆえに、『剛』は自らの老いによって、志半ばにして役を引きずりおろされていくことになる。



“正義”は一見華やかで光を浴びる存在だが、実はとても弱い存在です。力は“邪悪”の中にある。

人には、正義もあれば邪もある。性善説も性悪説も無い。すべてが手段に過ぎない。堂々と、信念のために“邪”を貫ける、そういう男たちが去っていく姿は、とても、寂しい気がした。

2010年2月3日水曜日

“男の性欲”について

男の性欲は、極めて“食”に近い。誰しもが、高級フレンチのフルコースを、あるいは円卓に並べられた豪華な中華料理を食べたいはず、しかし、毎度そうはいかない。金もかかるし、美味しい店に出かける手間もかかる。
「しょうがない・・、じゃ、今夜はマックで。」

別にマックをどうこう言っているわけではない。チープな予算で、お腹いっぱいになれる、優れた食品ではある。たまにマック、というのならともかく、どうだろう、やがてそれが毎日となってしまったら。
高級フレンチのフルコース、豪華な中華料理を食べなくても、人はお腹を満たすことはできる。
満腹感はマックでも、フレンチでも同じことだ。今日もマック、明日もマック、やっぱりお腹は空くからまたマック・・

マックを毎日食べることはそうないにしても、これはあくまで例えです。
“男の性欲”、ちょっと似ていませんか?

どんな女性が好みか?はともかく、そんなタイプの女性が目の前に現れても、「ま、いいか・・」と通り過ぎてしまう。そして、一人になって結局マスをかく。男ってのは、抜いてしまうと、牙も抜けてしまうというか、お腹いっぱいというか、さっき出会ったいい“女”の事を忘れて、変に満足してしまう。そんな日々の繰り返しが、やがて女を求めない男にしてしまう。

「だってマックでもお腹いっぱいになるからいいじゃん。」
「最近のマックは優秀ですよ。」(某30歳男)

マックが優秀というのは、ネットもあるしAVのコはみんな昔よりずっと綺麗になったと。いつでも入手可能ないまどき、オレらの時代とはツールの進化度が全く違う、と彼は言いたいらしい。

要は、これがいわゆる草食化ってヤツじゃないかと思うわけです。

そもそも、彼らは快楽ってものをあまり求めない。
バブルの時代をいくらかはかじったボクらに言わせても説得力が無いのかもしれないが、快楽体験こそ人間の上昇志向の根幹だと思っている。麻薬は良くない、でも麻薬を知らない人は麻薬の魅力に惹きつけられることはないと思っているだろう。しかし、麻薬を知っているものは、それじゃ足りない・・もっともっと刺激の強い快感を求める。ここで麻薬を例にとるのはあまり良くないと思いつつも、でも、人間の上昇志向ってのはそんなもの。多分、快楽を求めない人は、きっと快楽ってものを知らないのだろうなと。

それは、人生をとっても乾いた空しいものにしてしまうだろう思う。
正義、モラル、与えられた、刷り込まれた価値観、そういうものにとらわれ、これでいいんだ、これが幸せだと思いこまされているヤツらを見ると、よくもまぁ羊牧化されちゃってと。

マスをかくならソープへ行け!(いまどきはデリか?
ティッシュを数枚使ったところで、何の経済効果にもならない。
女を好きになったら、当たって砕けろと。
砕ける前にあきらめて、ウチ帰ってマスかいてフニャ~とニヤケ顔の劣化男子・・・お前らがこの国を草、いや腐らせてる、と思うわけです。

快楽を得るには、多少のリスクはつきものです。
お金かもしれないし、ルールを破って信用を失うかもしれない。
みんながみんな『草』になるのは一向に構わない。オレは“肉”なので、狩り放題ww
でも、これをこの国のこととして考えるとそうはいかないかな。
肉食化の進む中国に、草食度がどんどん増しているこの国は、やっぱり食われて終わりになるのは目に見えている。
それはやっぱり、まずいんじゃないの?


先日、ある商社の人との会話。
「トヨタの件はヤバイね。made in Japanもこれまでか。いずれ日本から外貨を稼げる企業が無くなっちゃうよ。」
「ウチなんか、もう無理、駄目、あきらめてる。日本製品はもう売れない。環境環境ってうるさい時代だから、その枠組みに入ってない国に行って、そこでどんどん石油掘って、火力発電所をばんばん作っている。ウチはそれで売上の80%をたたき出してる。」
「石油は無くなんない、結局。」
「そう、でもいつかは枯渇するかもしれないってことで、原子力って言っているわけで。」
「日本も25%から40%にすると言っているね。」
「でも、いざ原子力が40%になったら、今度はLNGが余っちゃったりするんだろうね。」
「石油だって、油田がどんどん見つかってるし、このままいったら石油もLNGも余っちゃってどうしようもなくなる。」
「世界じゃ、みんな必死。日本にいると見えてこない。見えてくる世界はつまり枠の中の世界。枠の外じゃ、もっとみんな必死に稼いでる。草食草食って言うけど、そんなの日本ぐらいなもんだよ。」

日本総肉食化計画、なんて言わなくちゃいけないようなこの国の未来はまじめに厳しそうです。

2010年1月18日月曜日

1月15日の小沢一郎民主党幹事長の元私設秘書で衆院議員、石川知裕容疑者(36)と、元私設秘書、池田光智容疑者(32)の逮捕から垣間見えること

1月15日(金)、夜8時半くらいのこと。
ちょうど警察担当のクラブ記者と食事中に彼のもとに一本の電話が入った。「今夜、検察が動く。石川議員の張り込みが足りないのですぐ来てくれ。」とのことだった。
彼曰く、「実は、この件、ウチは情報が取れてない。急いで行かないと。」

テーブルに並んでた食事を駆け込みながら、「ところで、実際何がどう悪いのか?」という問いかけに「正直何が、ということじゃないんだけど、クラブではすでに(小沢=悪という)枠にはめてしまってる傾向がある。」と。
「それ、おかしいね。」
「ええ。。」

それから彼は席を立ち、現場に向かった。
約1時間半くらいたって電話があった。
「石川(議員)が逮捕された。」と。1月15日午後10時。

その後発表された小沢一郎民主党幹事長の元私設秘書で衆院議員、石川知裕容疑者(36)と、元私設秘書、池田光智容疑者(32)の逮捕容疑の要旨は次の通り。

石川容疑者は小沢氏の資金管理団体「陸山会」の会計責任者だった公設第1秘書、大久保隆規容疑者(41)と共謀し、収入総額を4億円、支出総額を約3億5200万円、それぞれ少なく虚偽記入した平成16年分の政治資金収支報告書を17年3月に総務相に提出した疑い。
池田容疑者は同様に大久保容疑者と共謀し、支出総額を約3億5200万円多く虚偽記入した17年分の収支報告書を18年3月に、支出総額を4億円過少に虚偽記入した19年分の収支報告書を20年3月に、それぞれ総務相に提出した疑い。


memoφ.....

-政治資金規正法・罰則-

(1)罰則
 政治資金規正法における収支報告や寄附制限等の履行を担保するための主な罰則は次のとおりです。

・無届団体の寄附の受領、支出の禁止違反
 5年以下の禁錮、100万円以下の罰金(法第23条)

・収支報告書の不記載、虚偽記載
 5年以下の禁錮、100万円以下の罰金(法第25条)

・寄附の量的制限違反
 1年以下の禁錮、50万円以下の罰金(法第26条)

・寄附の質的制限違反
 3年以下の禁錮、50万円以下の罰金(法第26条の2)


(注)寄附の量的・質的制限等違反による寄附にかかる財産上の利益については、没収または追徴する。(法第28条の2)

(2)公民権の停止
 政治資金規正法に定める罪を犯した者は、選挙犯罪を犯した者と同様、次の期間、公民権(公職選挙法に規定する選挙権およ び被選挙権)を有しないこととされています。(法第28条)

・禁錮刑に処せられた者
 裁判が確定した日から刑の執行を終わるまでの間とその後の5年間

・罰金刑に処せられた者
 裁判が確定した日から5年間

・これらの刑の執行猶予の言い渡しを受けた者
 裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間

(注)政治資金規正法違反によりその公民権を停止された者、併せて選挙運動も禁止されます。(公職選挙法第137条の3)

逮捕は決してそれをもって有罪確定ではない。が、メディアの論調はすでに民主党幹事長・小沢一郎氏もすでに容疑者として扱いはじめた。容疑といっても、何の容疑なのか明確にはなっていないが。この案件、そもそも2009年5月から開始された政治資金の寄付者側の西松建設・國澤幹雄元社長らの公判の経過と、判決の内容から端を発している。

ちょうどこの公判は、株主総会前で、早期の裁判終結を望んだ西松建設側は、公訴事実をすべて認め、検察側の証拠請求にすべて同意、結果として執行猶予付きの有罪判決が言い渡された。
西松建設のダミー政治団体「新政治問題研究会」から献金を行った。受け取った大久保氏が、仮にその団体が西松建設のダミー団体だと認識していたとしても、寄付者名に「新政治問題研究会」と書くべきだったのか、それとも企業献金が認められている政党支部宛として「西松建設」と書くべきだったのか、虚偽記載とはいえ、総務省はどちらが合法か、判断できないということだったが、この見解が検察とは異なっていた。寄付者名の記載方法については会計責任者の判断に委ねられていたという過去の経緯の中で、会計担当者が即逮捕されて罰則が適用されるというのはまさにそのことを意味している。

そもそも政治資金規正法が議員立法であるため、担当官庁が罰則の適用について判断することは政治活動の自由を奪うことにつながりかねないという事情があった。民主党は政治資金規正法に関する公開ヒアリングを行ったのだが、その際、委員会は「これでは、全国に無数に存在する政治団体、政党、政党支部の会計担当は、寄附者について収支報告書にどう記載したら良いのかまったくわからない」とコメント、政治資金規正法の解釈・運用に関して根本的な問題があるとの認識を示した。この公開ヒアリングでは、法務省に対しても出席を要請したが、公判中の事件であることなどの理由により出席を拒否している。



大雑把ではあるが、今回の小沢氏の元秘書逮捕に結び付く経緯の初期にある検察の中に、ある“意思”らしきものを感じることができると思う。
まずは、西松建設・國澤幹雄元社長らの公判において、会社の経営上の判断として検察側の公訴事実をすべて認め、検察側の証拠請求にすべて同意、そこで作られた供述書に検察に言われたまま無条件・署名をしていると考えられる。
第二に、法律の所管省庁である総務省が見解を明確にできていないにもかかわらず、検察は独自の判断で解釈を加え、いわば政治資金規正法違反は形式犯ではなく、かなり悪質な犯罪であるとし、適用の厳罰化に踏み切った。

そこで考えられる事は、西松建設・國澤幹雄元社長らの供述調書は真実なのかどうか?國澤幹雄元社長らは、いわば検察の言いなりだった。供述調書の真偽すら怪しい。あるいは、その後の検察の解釈、捜査の方向性を担保するために利用されているという可能性。
そして、先もふれたが、議員立法であり、議員の自由な政治活動を奪う解釈を検察自身が加えることは、いわば検察の暴走と言えなくもないか。そして、その担保が、検察の言いなりで作り上げられた國澤幹雄元社長らの調書だとしたら、もはやこの暴挙は、検察が捜査機関として地に堕ちた組織であることを証明している。


小沢金脈の構図は、近代日本史における自民党の金脈構造そのもの、田中角栄-金丸信、そして小沢一郎、おそらくそう引き継がれてきたものであろう。蓄財の一部は、いつか語られた"刻印のない金塊"かもしれない。これらを明らかにすることは、一方で未来の日本を創ろうという今だからこそ意味があるとも言える。だが、一方で、今の自民党も民主党も政治主導を掲げながら、実はまだまだこの国は官僚主導であるという実態に気づかされる。

民主主義国家と思わされているこの国の実態が垣間見えている。実は検察国家であり、警察国家なのである。
2010年4月、小沢氏の容疑案件は時効を迎える、というだけではない。検察、警察も人事が動く。たとえば警察、後藤田氏から自民党色の強い人事が継続されてきた。国会で国策捜査であるかのような発言をし批判を受けた麻生内閣の元副官房長官の漆間巌氏は警察庁長官だった。その時の警察庁官房長が安藤隆春氏、現警察庁長官。安藤氏も自民党とのパイプが極めて強い。そして安藤氏の任期は今年の4月までである。

民主党の敵は、いわば自民党、官僚組織だけではない、小沢幹事長は記者クラブという既得メディアにとっての利権構造をも壊そうとしてきた。バックは読売グループの渡辺恒夫氏だ。敵の敵は仲間、じゃないが、記者クラブと官僚組織、そして自民党は打倒小沢氏でベクトルが一致している。したがって、クラブ記者はすでに枠をはめた報道に終始しているわけだ。検察vs民主党、その構図は表、実態はもっと大きなバトルがここにある。そして、人事で大きく動く4月を前にその戦いは加速されていく。

民主主義がこの国に良いかどうかはともかく、小沢氏が目指す"民主主義を根付かせる"という志の本当の戦いはいよいよ正念場を迎えた。4月までにどう決着をつけるのか。
小沢一郎という政治家がどうであれ、今、この時点で国民の、いわば反官僚機構、反マスゴミの代表であることは明確で、彼の"罪"は民主党が政権を奪取するために必要だった経費、いわば過去のつけ。
日本国民よ、マスコミに惑わされることなかれ。
そして国民から主権を奪おうという検察の暴挙に怒れ!

2010年1月13日水曜日

人間の雄が消滅する日-y染色体の劣化

性染色体にはx染色体とy染色体が存在するわけだが、父親が持つx-y、母親が持つx-x、これが作用して子供ができる。実際のところx-xとx-yの中から優勢なものを選んで子の遺伝子が決定されるというほど単純ではないにしても、基本的にこの遺伝子は親の持っている遺伝子をベースに修復が加えられてできあがっている。

さて、子が女子の場合は親の三種類のxから優勢なxによってx-xとして女子が生まれる。しかもxは代替可能で、対の一方の遺伝子が機能不全だったとしてももう一方が機能する。しかし、子が男子となった場合は、x-yのy染色体はそもそも父親のそれをコピーしたもの、ということになる。コピーは台を経て打撃を受けたりコピーミスをおかす。したがってy染色体は結果としてどんどん短く粗悪なものになっていくのは避けられない。事実、x染色体は約1,000以上の遺伝子を持つのに対しy染色体は78しかない。つまり、いずれ人間の性染色体からy染色体は消滅する運命にあるのは間違いない。

人間を含む哺乳動物は子供を胎盤で育てる。実はy染色体は、母がその胎盤をつくる際に重要な役割を担っており、つまりy染色体の劣化はやがて胎盤の劣化、あるいは胎盤を作れない、結果人類は存続できなくなるというプロセスを想像させる。

もはや“男”には頼ってられない、“女”は自らの遺伝子に革命を起こし、“男”を必要としない新しい人類に進化しようとしている-

そんなことを感じたことはないだろうか?

一部の爬虫類は魚類の中に、雄がいなくなると雌が雄化して子孫を残せるように"性転換"をしてしまうものがいる。y染色体が消滅すれば、今のままでは人類は絶滅する。しかし、そうはさせじと、女は自らの遺伝子情報の分析を無意識のうちに行い、y染色体は経年劣化が激しく使い物にならないからそろそろ新しい性染色体、たとえばz染色体のようなものを作ろうとしている、のかもしれない。

z染色体はいわば進化の過程にあり、性染色体として確立されたものではないから、医学の進歩した現代においては、あるいは“病気”“障害”と捉えられている可能性はある。そう、性同一性障害。といってもこれは女の場合に限る。
y染色体はそもそも劣化している。したがって、男そのものの劣化の表れも性同一性障害という形で表れることも考えられる。女性的な外見、肉体的にも弱く、実に劣化的。一方で、女子の性同一性障害、思うに多くの彼らは運動能力に優れ、頭脳明晰、全部がというわけではないが傾向としてむしろ障害というよりは進化の過程にあるのではと思う場面が多い。
彼らは肉体的性と精神的性という社会の一般常識の中で苦悩し、選択をする。どの性で生きていくのかを。結果として、乳房を、または子宮をとり、性転換手術を行うことで、現実社会の中で存続しうる性の枠組みの中に納まろうとする。すなわち、ここで、常識的枠組みの中の“障害”という分別によって、人間のひょっとしたら進化の種かもしれないものを奪っているかもしれないのだ。
性同一性障害のコらとの面識も多く、彼らの中で「そのままコを生んで進化を示してみようよ!」なんて言ったりすることはあるが、実際のところそう単純ではない問題と環境の中で、そういう決断は簡単ではないだろう。だが、釈然としない。ひょっとしてだが、本当に進化の兆しだったらと。

話は戻るが、そう、つまり男は劣化している。たとえば現代人の精子は減っているという研究結果が世界中で報告されている。成人男性の精子数はおよそ50年前とくらべて半減しているといわれており、WHO(世界保健機関)の発表では、精子の運動率も20年前とくらべて80%から50%にまで落ちたという報告がありる。
y染色体の劣化どころか、そもそも男性の精子が無くなっちゃいそうな勢い。20年前のデータで通常1mlあたりの精子の数は7,000万~1億コ、それが今やWHOが定める正常下限は約4000万/ml、だがこれが約2,000万コ/mlから1,300万コ/mlあたりで、いわゆる男性不妊の領域に入ることになる。

精子は薄くなる、動きも鈍い、あげくy染色体は劣化。男がこんなじゃ、女もそろそろ男に見切りをつけて自ら新たな性を作りだしたくもなるのも、わからないでもない。こんな男どもに任せてたら、それこそ人類は滅亡と。

こういった側面からみても、人の草食化傾向の一端が見て取れる、という話でした。
牡蠣を食べようとか、にんにくをとか、まぁそれはともかく、でも実際のところSEXでもなんでも射精してないと前立腺も劣化するわけで、要するに生物学的にも人間の草食化にいいことはない。ならば、人類滅亡を避ける意味でも肉食化しましょう、という話でした。

2010年1月12日火曜日

「未完」

知識
価値観
思想

どれも生まれた時には何もなかった

生きていく中で
僕らは
擦り込まれ
あるいは自分自身でたたき込み
そうして変わり続け
今にたどり着いた

僕らは時折
擦り込まれた慣行に思慮を欠き
思わぬ結果に
傷つき
あるいは傷つけ
悩み、挫折をする

頭を抱え
考え
学び
やっとの思いでたどり着いた今は
思い描いた理想とは程遠い

生まれた時にあった
完全なる自由
定義することすらその自由を奪うほどの自由
その自由を削り取る

削り続けて生きる

削り取る刃は





削り取る力は

想像力


人は
限られた時の間に生き
人は
愛するものの前では
奴隷に等しい

時は経験と思慮を与え
愛したことは骨身にしみ込む

知識
価値観
思想

生きてきた中で
擦り込まれ
あるいは自分自身でたたき込み
湧き出す想像力で
さらに深く深く削り取る

やがて擦り込まれたものをも追い出し
借り物ではない
唯一の自分自身に
どこまで近付けるか

生きるとは
多分そういう事で

だから

もしその形が完成したと思えたら

例え時を余していたとしても

僕は自ら

死のうと思う

そうあれたら
いいと思う

その為に生きたいと思う

「涙を流すとき」

時代に囚われ
軽薄な善悪に縛られ
今涙を流すとき
7年前のあの火事のことを話すと
大人たちはいやな顔をする
ヤツは逃げて今ものうのうと生きてる
それを知ってるあいつらに突っ込んでやったさ
黙って何も言えやしない
じっと眼を見つめてやるんだ
だけどそんなこと やつらにはどうでもよかった
政治とワイドショーは
この街の虚像に踊りつづけてる
だからこんなになっちまった

眠らないこの街が
眠りにつくころ
僕たちは独りになって
忘れてたことを
思い出す
夢が消えかけてる
だったら夢を作り出せばいいと
やがて時が来て
風は変わる
今吹いてる風は
向かい風
へたすれば堕ちて朽ちて果てるかも
だけど強ければ強いほど
つかめば高く飛べるはず
高く高く
それでも追い風がないと前には進めない
僕たちは今
そこに向かっている

少数派の多数が権力を振りかざし
マスコミの薄っぺらな正義に支配されて
なにも出来ないと信じている愚かな民たち
あいつらは高い酒を呑んでは酔っ払い
わかったように善悪のことをしゃべってる
それがあいつらを守る貧弱な鎧だと気付かずに
それなら自由にセックスしてる
こいつらのがよっぽど信用できる

眠らないこの街が
眠りにつくころ
僕たちは独りになって
忘れてたことを
思い出す
夢が消えかけてる
だったら夢を作り出せばいいと
やがて時が来て
風は変わる
今吹いてる風は
向かい風
へたすれば堕ちて朽ちて果てるかも
だけど強ければ強いほど
つかめば高く飛べるはず
高く高く
それでも追い風がないと前には進めない
僕たちは今
そこに向かっている

みんな無意味な自分に怒ってる
声にならない声が聞こえる
だから僕は歌う
彼女が言うんだ
あんたは地獄に囚われてると
いやなら仕方がないさ
どのみち僕は救われない
でもそれすら無意味だと思わないかい
心の真実を欺くな
嘘を見抜けば世界は変わる
この街が好きなら
愛の痛みを知ってる証
あいつらのことなどどこ吹く風
なりふり構ってる場合じゃない
昔はそうだったんじゃない?
なにも期待してない
いつか命は朽ち果てても
夢は永遠だから
この街は知っている
生きていくのはつらいことさ
悪役たちのがよっぽど善人だってね

僕は 君を抱きしめたこの腕で
今 世界を抱きしめている
ここではいつも何かが起こってる
愛と哀しみに満ちた
歌舞伎町にようこそ

歌舞伎町の中心から~“日本総肉食化計画”

2010年、てらたにこういちの個人的なテーマは"日本総肉食化計画"。何も肉を食べようって話ではない。この国を包み込むかつての英国病的な空気を打破するには、怒りさえ持たない不感症になったこの国の人たちの心をもう一度目覚めさせる、いわば、日本をなんとかしたいなら、草食化した国民を肉食化する、ちょっとそんなことをテーマにやっていこうかと思ってます。

かつて英国病で不感症になった英国女性を目覚めさせたのはジョニ・ミッチェルの歌"Both Sides Now"(青春の光と影)だったとか。日本の場合、むしろ男のほうが不感症な感がある。草食化したこの国の人たちのどうやって肉食化することができるのか。

“マスをかくならソープへ行け”“売春合法化”(女性の皆さまには失礼しました^^;

それはややジョークにしても、怒りを忘れ、欲を失ったら人は駄目になる。ストレスの強い社会でガス抜きがうまくいかなければどこかで暴発的な事件や事故が起きる、そう思っていた。しかし、どうもそうではないらしい。いつのまにか、この国の人たちはストレスを感じなくなってきてしまっているような気がします。要するにガス抜きしなくても済んでしまう、いわば心が不感症化している。景気や経済の後退が国民の総草食化に繋がったことは言うまでもないが、しかし景気が回復したからといって消費が簡単に伸びるか?といえばそうではない気がする。いわば、草食化した国民を肉食化しなければどうにもならない。このままでは、草食化した日本は、肉食化が進む中国等にいとも簡単に食われてしまうだろう。

そこで、“日本総肉食化”、日本再生のキーワードはこれ!

心が不感症、怒りすら忘れ
草食化した日本人の心を
日本のへそ、"肉食人の聖地・歌舞伎町"の中心から目覚めさせる
2010年、日本総肉食化計画開始!


とかなんとか、いろいろやることがありますが、皆さまにとって、2010年が素晴らしい一年となりますよう。

2010年 元旦

今年もよろしくお願いします。

"日本肉食党・党首" てらたにこういち

歌舞伎町の中心から~日本総肉食化計画